活発な子?冷静な子?【マイヒストリー①】

野口久美です。

今日は、私が生まれてから現在に至るまでの、マイヒストリーを書くことにしました。

 

ブログを読んでくださっている方のほとんどは、お会いしたことのない方じゃないかな〜と思います。

 

野口久美ってどんな人? 

作家を始めたきっかけは?

曼荼羅?色彩心理?
えーっと、何がやりたいの?

 

そんな疑問を持たれている方もいらっしゃるかもしれませんので、いろいろと体験してきたことを書いてみますね。

 

活発だった幼少期

1984年。
次女として、横浜で生まれました。

生まれた時から、髪の毛ふさっふさ。
まつげの長~い女の子だったと聞いています。

就園前に、佐賀県佐賀市にお引っ越し。

市内の幼稚園に通いました。
このころから記憶があります。

幼稚園では、おてんば娘。

姉の影響で、オルガンも習っていたけれど。

室内でおとなしくお稽古するのが、窮屈でした。
オルガン室ではしゃいでて、怒られた記憶もあります。

おてんばなのに、小さい時からお絵かきが大好き。
紙と鉛筆があれば何時間でも過ごせました。

幼稚園のころの夢は、「おえかきやさん」。

今でも、たくさんの色がそろっている色鉛筆や絵の具を見るとテンションが上がります。

 

そして、いつも3つ離れた姉と、ひとつ下の弟と一緒。

お洋服を着るのも、お風呂に入るのも、なんでも姉にしてもらっていたのを覚えています。

そしてよく弟と一緒に、外に立たされていました。ほとんど、わたしのせい。

小学校に入ってからも活発さは変わらず。
男の子と遊ぶことが多く、廊下を走っては、職員室の前に正座させられていました。

 

 

孤独と重圧を感じる8歳児

小学校2年生のときに、両親の実家のある田舎へお引っ越し。

そこからわたしの人見知りが始まりました。

表向き、それなりに活発な私でしたが、方言が怖くて、気付いたら保健室に行っていました。

このままでは不登校になるかも。。と心配した祖父と母の思いもあって、スイミングスクールに通うようになりました。

スイミングが大好きだった私はだんだんと新しい土地にも慣れてきて。

学校にも普通に通えるようになりました。

この頃の夢は、漫画家でした。

 

「10人いて、9人が左といっても、自分が右だと思ったら右にいきなさい」

母からよくそう言われいたので、ある程度、思ったことははっきりと言うし、曲がったことは嫌いな性格です。

嫌なことは嫌だとはっきり言いますし、ちゃんと自分の意見は言います。
自分が納得できなければ、賛同はしませんでした。

そんな性格もあり、小学生のころは、毎年、学級委員をしました。
児童会、応援団など、率先してすることもたくさんしました。

ピアノの伴奏、水泳のリレーなどで、人前にもよく出ていました。

 

この頃、よく感じていたのが、大人からの重圧。

祖父は昔、校長先生をしており、私が小学校の時は、町の教育委員長でした。

田舎だからか話が広まるのが速いこと。

会う人会う人「校長先生のお孫さん!」と言われ、幼いなりに、行儀よく利口にしなくてはいけないと思っていましたし、何でも出来て当たり前。そう思われているようにも感じていました。

 

 

よく言えば冷静、悪く言えば冷めた子

小学校の時は、苦手なものはハードルくらいで、その他はなんでもスムーズに出来ていました。

その反面、子供の時から冷めた性格で、のりが悪いとよく言われていました。

あまり人に深く入り込めない。
外でみんなとわいわい遊ぶのは苦手。

昼休みに教室でひとりでお絵かきをしていて、外で遊ぶよう先生によく怒られました。

これは、今でも一緒。

●童心に返って、子供と遊べない。
(子供の時から、そんなにきゃぴきゃぴ遊んでいないけど…)

●いつもひとりでぽつんといる。
(ひとりでも、ある程度は平気。集団でいると疲れます)

●一歩ひいて見てしまう。
(中に入れない、というか入りたくない)

よく言えば、いつも冷静です。

今でも言われます、冷静な人間です。

 

そんな私がみんなと一緒にテンションのあげられるもの。

それは、小学校4年から始めたバレーボール。

これが私の人生を変えました。

 

続きは、こちら。
▶︎▶︎▶︎【マイヒストリー②】バレー馬鹿の日々と人間不信

 

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